■ハク様の長い長い一日■

2)恋をしよう

「私はここに来たことがあるんですか?……子供の頃に」

場所はハクの私室、背もたれに刺繍のほどこされた椅子に座らせられた千尋は、ハクの入れた紅茶を口元に運びながら言った。

「私の事も……覚えていない?」

信じられない、といった様子でハクは顔面蒼白、今にも倒れそうになりながら尋ねた。
千尋は無言で首を振る。
あまりにも落胆するハクの様子にすまなさそうだ。

ハクとしては、成長した千尋と再会し、その先の人生も共に歩いて行くものと信じてここまで生きてきた。
けれど千尋の方にまったく記憶がないとなると話は別だった。

では、また恋をしたら?

すこぶる前向きな発想が思い浮かぶ。
そうか、その手があったか。
しかし、目の前で背筋をピンと伸ばして座る千尋は予想以上の成長ぶりで、それがいっそう歯がゆく、ハクの落胆を誘う。

座っている千尋の向こう、扉の奥には寝台だってあるというのに、そこまでの距離は果ての無い永遠の隔たりのようにも思えた。
けれど、再び千尋と、今度は信頼ではなくて恋心を育てていく、というのは悪い話ではないのだ。

獲物の前で舌なめずりをする獣のように。
と、言うとひどく誤解されそうだったが、まさにそんな気持ちで、ハクは千尋をじっと見つめた。

千尋自身も戸惑っている。

長じて進学、大手旅行代理店への入社は、上々の人生だったと思う。
しかし、ネットエージェント全盛の昨今、旅行代理店側も苦戦を強いられ、花形である窓口業務もかつてのように若い女性が多い華やかな場所では無くなっていた。
人員整理の為、仕事は多く、やりがいがあると言えば聞こえはいいが、ようは何でも屋にさせられがちという事で、時間に対する仕事の量、けれど一定上のクオリティを上げなくてはいけないというジレンマに悩んでいた矢先、千尋は大きなミスをした。
ミスそのものは決して取り返しのきかないものではなかったのだが、今回は運が悪かった。
窓口はやはり若い女性に、というセクハラぎりぎりの理由で窓口からポジション移動させられた先輩社員は何かと千尋につらくあたり、ミスを理由に騒ぎ立て、千尋は営業所から孤立してしまったのだ。
無能ではないが、入社間もない千尋に熟練スタッフの根回しを看破するは難しく、指導社員は多忙な上、女性社員のいがみあいと取り合ってもくれない。
連休を幸いに一人気分転換の旅に出た先で気まぐれに立ち寄った場所から、かつて来たことのある不思議な町にたどり着いてしまったのだった。

引っ越したばかりの不安と、
新しい職場での不安、
そして千尋の心が、不思議の町への道を開いたのかもしれないが、幼い頃の記憶の一部を失っている彼女には知る由も無い。

今は、突然現れた時代錯誤な衣装をまとった青年が、どうやら自分を知っているしいという事に驚き、戸惑っているのだった。

「私、いつあなたと出会ったんでしょう……、ごめんなさい、小さい頃にひどく熱を出して、前後の記憶がはっきりしない時期があるんです」

心からすまなさそうに千尋が言う。

「幼い頃に何度か、会ったことがあるだけだ、覚えていないのなら、もう一度私を知ってくれればいいよ、私の名は、ハクだ」

「ハク……」

千尋は小さな声で反芻する、そうした姿は小鳥のように可憐だとハクはでれでれと見守っているが、考え込んでいる千尋はそれに気づかない。

「どこかで、聞いたような……、でも、ごめんなさい」

気にすることはないよ、と、ハクは微笑んだ。
その微笑の下で、今後の事を計算する。
できるならこのまま、誰にも知られず油屋を出てしまいたかった。
けれど団体客を控え、ここを離れるのはいくらなんでもあまりに薄情というものだ。
時にクソ婆ぁなど毒づくことはあっても、基本的にハクは師である湯婆婆を(一応)認めてはいるし、千尋を失い、目的をなくした長い間過ごした油屋に対して相応の感謝も礼も持っている。
問題は一晩千尋をどうしたらいいかという事。
この部屋に留めておくのが上策だとは思うが発覚した場合が恐ろしい。
人の娘をたった一人残して行くのは不安であったし、かといって、かつて千尋を預けられそうなリンも今日は忙しいであろうから、そう千尋の面倒だけ見ているわけにもいかない。
銭婆の元へ届けようかとも思うが、あそこにはカオナシがいる。
過去の事件を考えると、取り越し苦労をしてしまう。
では坊はどうか、……それも否だった。坊はある意味小さくなった。
何と言うか、あの巨顔婆から生まれて、巨顔赤子であったはずが、長じて普通の頭身になってしまったのだ。
言いたくはないが美少年の部類としてもさしつかえないほどに。どんな魔法が働いているのか、ハクにはわからないが、セン、センと千尋を慕っていた少年に今の千尋を見せるのには抵抗がある。結局、何くれと理由をつけて、ハクは千尋を閉じ込めておきたいのだ。下手に騒ぎになるくらいならいっそかつてのように湯女に混ざってしまえば……、いや、しかし。
笑顔の下、えんえんと計算を巡らせているのだが、なかなか答えがはじき出されない。

「空が……」

千尋の声でハクは我に返った。
見ると、窓には既に暮色が浮かんでいる。時間はあまりない。ハクは立ち上がって外を見た。

「千尋、こちらへおいで」

手をさしのべてハクは千尋を窓の近くへ誘う。
夕暮れの不思議な町に次々と明かりが灯っていくのを、千尋とハクは並んでしばらく見つめていた。
空は藍色へ変わり、不思議の町に闇が降りてきた。
月の出にはまだ早く、地平線に日没の名残が残っている。

「ここで働かせて下さい」

ぽつり、と、横に立つ千尋が視線を窓の外へ向けたまま言った。

「ここは宿屋さんのようですね、でしたら何でもします、私を雇ってください」

千尋の真摯な勢いに、ハクは気おされた。

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