『水出』と、彫られた御影石の表札のかかる門、千尋がかつて住んでいた家は、もはや見知らぬ誰かの家になっていて、千尋の部屋だった二階の一角の明かりは消えていた。
そして…。
「むう…」
理沙の家を見上げて黒衣の魔物は溜息をついた。
「…ハク?」
「警告、はしたはずであったが…」
つぶやいた声は千尋には聞こえなかった。
「あまり、いい感じはしないね、明かりの消える時間では無いし…留守、ではないようだ」
もう一人の青年もつぶやいた。
「とにかく、行こう」
進み出でて、千尋が呼び鈴を鳴らす前に、音も無く、扉が、開いた。わずかに除いた隙間からきらりと輝く何かが見える。闇から照り返る禍物の光に、千尋は身じろぎをした。
そこに、立っていたのは…。
「おばさん…」
千尋もかつて親しんだ理沙の母は、もっと快活な人であったはずだ、いつも一本に結わえられた髪を振り乱し、眼鏡も外している。
「あの、私、千尋です。昔隣に住んでいた…」
踵を返した理沙の母が、「千尋」という名に反応するように、振り向いた。…ゆっくりと。
「チ…ヒ…ロ…?」
体の向きは変えていない。首だけが、キリキリと千尋達の方を向く。
「ヒ…ッ!」
千尋が後ずさろうと、半歩下がった瞬間、扉の隙間から濁流が流れ出たかと思うや否や、水流が千尋達を巻き込む。またたく間に千尋達を絡め取ると、ぱたり、と扉が閉まった。
あたりは、何事もなかったかのように、静まりかえり、誘蛾灯がチリチリと音をたて、遠くで犬の鳴く声が響いた。