「文部科学省の人らしいよ」
職員室から戻って来たクラスメート数名が囁き会っている。なんでも、職員室に、見慣れない男性がいるらしい。長い亜麻色の髪をひとつに束ね、黒で統一された三つ揃い。年の頃は、二十代後半ほどであろうか。それでなくても、教師でさえ女性ばかりの学校で、若い男が校舎内にいるというのは、とても非日常的な構図となる。俄然少女たちは手前勝手にささやき合う。
必死で週番日誌と格闘している千尋は、あまりよくその話を聞いていなかった。何と言っても今日は、急いで帰って、またぞろ父がどこからかもらってきたらしい上物和牛ですき焼きを作らなくてはならないのだ。激務な父は、それを詫びているつもりなのか、たまの帰宅時にはイロイロと土産を持って帰ってくる。しかし、実際、帰りの遅い父に家事を期待するのわけにもいかず、結果的に主婦になっている千尋としては、それなりに負担でもあった。
授業内容は、授業後にすぐ書いてしまうからいいとしても、コメント記入欄が無駄に広く、不運にも国語教師を担任に持ってしまった千尋達のクラスは、一定以上の文字数において、コメントを埋めるのを義務付けられていた。以前、半分以上空欄で出した当番は、追記を命じられ、大きな文字で欄を埋めたものは、上から紙を貼って書き直すハメになった。日常の気づきを書けばよい、常に周囲へ関心と意識を、というのが担任の意向のようであったが、一週間ともなるとそうも言ってはいられない。流石に書くことがないなあ、と思案に暮れているところで…、理沙が声をかけた。
「終わりそう?」
「…ダメ…終わんないよーーー」
そう言うと、千尋は片手にボールペンを持ったまま机につっぷした。
「うーん…ネタ…ネタねえ」
そう言って理沙は右手の人差し指を唇にあてた。
「カレシの事でも書けばぁ?」
にんまり、と意地悪な笑みを浮かべて理沙が言う。
「なっ…何言ってんのよぉ」
家庭教師をしてくれている人がいる、という話は…理沙にはしていた。それが大学生で、男性である、という事も。ただ、その他、周辺の複雑な話について…はいまだにできていない。楽しくじゃれあっている時も、ふと、千尋は怖くなるのだ、かつてのクラスメートや友人達が、自分を遠巻きに見ていた視線を思い出すと。
今の時間が、楽しくて、充実すればするほどに、千尋は、理沙に話す事を躊躇する。もう、このままでもいいだろうか、と、思わないでもなかったが、他の誰をおいても、理沙には感謝したかったし。(本人にそのつもりがなかったとしても)助けてもらった礼をしたかった。
そうして、悩んでいる千尋を気遣ってか、ハクは遠巻きに黙って見守る事の方が多くなっていた。今とて、4階の窓の外。木の枝に腰掛けて、ぼんやりと教室ではしゃぐ千尋を見ている。当初危惧していた「モノ」は、今の所千尋に害を成していなかったし、信じられないほど毎日は凪いでいて、…だから、ハクは見落とした。すぐ近くに、危機が迫っている、という事に。
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