そして、当の「海月堂」(くらげどう、と読む)では…。
「婆さん、掃除終わったぜ」
祐介の夢想のように甘えたしゃべりかたはしない娘、…リンが、ほうき片手に店内に戻る。外観とは異なり、重厚な木作りの店内は、古いが、手入れが行き届いている。
店の奥、カウンターの先で、大きな机にどっかりとかまえ、液晶ディスプレイに向かい、しきりにキーボードをカタカタと操り、もう片手には(こっちの方が早いんだよ、と言い張って使っている)算盤をたずさえた老婆が一人。
プラチナブロンドにも見える白髪をひっつめて結い上げ、鼻の上にちょこんと眼鏡をのせている。欧風の重厚なドレスを身にまとい、それが背景たる木造の店内に合っている。むしろTシャツにGパン姿のリンの方が浮いてしまっていた。
「婆さんじゃない、麻燐婆(マリンバ)様、とお呼び」
湯婆婆、銭婆の顔を並にして縦に伸ばしたような風貌のその老婆は、名を麻燐婆と言った。
「へいへい、わっかりました。麻燐婆…様」
幾分含むところを持ちながらも、リンは素直にその言葉に従った。今となっては彼女こそが宿主であり、また雇い主なのである。油屋を出、千尋の安全を図りに来た彼女は、脅威が去った今もこちらに残り、千尋の転居に合わせてこの町にやってきた。むろん、元の雇い主である湯婆婆の紹介によって…である。
食料その他、ほぼ自給自足でまかなっている油屋ではあるが、それでも不足するものは数多くあり、そうしたモノを調達し、あちら側に送るのが彼女、麻燐婆の仕事だった。発注の窓口が海月堂、輸入、小売、よろずなんでもひきうけ商会、といったところが主な仕事で、そういった発注モロモロは、今のご時世、インターネットを通じて行っているのだった。そうしたノウハウを活かさない手はない、と、近頃流行りのネットカフェのようなものを始めるにあたり、店内のちょっとした改装と、アルバイトを雇う事となり、こちらに来て、身を持て余していたリンに白羽の矢が立ったのだった。今、彼女はカオナシ共々、ここ、海月堂の二階に起居している。
「掃除は終わったのかい?そしたら、じきにトラックが来るからね、奥の荷物を運んでおくれな」
「げぇーーー、今度は力仕事かよ」
リンの言葉に耳を貸さず、麻燐婆は再びディスプレイに視線を落とした。
「ったく…」
リンは溜息をつくと、厨房に入って造りおきのデザート類の作成にいそしんでいる相棒に声をかけた。
「カオナシーーーーっ、ちょっと手伝ってくれよ」
料理の手をとめ、カオナシが足音も立てずにやってくる。しばし無言で、二人は肉体労働に従事した。
ほどなくしてトラックが店の前に止まると、無口な運転手が降りてきて、搬入を手伝い、去っていく。ああした荷物は、なんと東京駅から海原電鉄によって運ばれるのだと聞いてリンは驚いた。なんでも、人の知らない、もうひとつのホームが、あのレンガ造りの駅の中にあるというのだ。リンがこちらに来た時に抜けた通路は既に無いが、こちらとあちらの接点は数多くあり、麻燐婆のような管理人がいる場合もあれば、知られず、時に、かつての千尋一家のようにまぎれこむ人がいるのだと、事務的口調で説明された事を思い返していた。
指示を終えて、一息つくと、時間は既に黄昏刻にさしかかり、店の外は薄暗くなっている。夕暮れ、道行く人の顔の判別もつかない時。どこからか、豆腐売りのラッパが聞こえてくる頃。
「ボチボチ開店の頃合かね」
と、店主である麻燐婆が言うと、突然、店に明かりが灯る。ガラス戸の向こう、夕刻の街の中に、海月堂と書かれた看板が浮かび上がった。