カオナシは、もう何十年も言葉を持たずにいる。言葉、言葉、思いを形にする手段、空を空たらしめ、海を海とするのはその青い色や蒼い色でもなく、「ソラ」であったり「ウミ」であったり、そうした言葉があるからだ。だが、カオナシにはそれが無い。意識の疎通は、それを持てない相手とはまったく持つことがなかった。
一度、銭婆の使いでたった一人油屋に赴いた際、いくらか慣れているとは言え、父役も兄役の態度も硬かった。青蛙は言わずもがな。(何しろ青蛙と兄役はカオナシに飲まれた事があったので)その時の、カオナシの体内にいたであろう時の事を尋ねても、兄役も青蛙も、顔をそむけて、青くなって震え上がるだけに違いない。カオナシの、あの仮面と、裾の半透明な漆黒の体の中身を想像する事、またカオナシを怒らせる事は、長く油屋のタブーであった。もちろん、カオナシにそんな意志がなかったとしても。
少なくとも、沼の底にいる間、カオナシは不幸ではなかった。優秀な魔女である銭婆は、カオナシの意識を的確に読み取ることに長けていたし、第一あそこには、カオナシ以外にも物言わぬ仲間が大勢いる。折りたたまれた足を出して、ガチャガチャと音をたてながら、一本足で進むランタンや、自ら動くほうき。かまどの炎は特に気分屋で、うっかりすると、カオナシは料理そのものよりも、かまどの炎のご機嫌を取るほうがずっとやっかいだと思っていたくらいだった。そこに、言葉は無い。が、意識は伝わる。そこには剥き出しのそれらの感情があった。快不快にかかわらず、それらは裏表なくぶつかってくる。怒ったり、ケンカをしたりも、偽りの無い思いが、そこにはあった。
だが、油屋はそうではなかった。
表面は、笑っている。その場を取り繕う笑い。言葉を持たないからといって、相手の意識を読み取れない、という事はない。カオナシは、対面するそれらの意識を読むことも、話している言葉も、理解し、そして、そこに潜む矛盾を、強く感じるたびに、絶えがたい寂しさを覚えるのだった。それは、むしのよい考えには違いなかったし、自分に向けられる畏怖と嫌悪が、簡単にぬぐうことができない、という事も知っていたので、ただただ、言葉を返すことができないことを幸いに、無表情な面の陰影はいっそう平坦に、無表情になっていくのだった。
けれど、リンは違っていた。
「カオナシーーーっ、センに何かあったら、タダじゃおかないからなぁっ!」
初めからリンは態度を崩さない。胡散臭い奴だな、というのももちろんあったし、当初は他の者達同様に、カオナシへ畏怖の念を向けていたものだった。
「だってよお、センがお前は悪いヤツじゃないって言うからさ、俺、センがそう言うんなら、お前はきっと悪いヤツじゃないんだろうな、って思うから」
そう言って、屈託なく笑うリンの笑顔は、心からのものだった。
千尋の身に、危機がせまっている事に、最初に気がついたのは銭婆だった。千尋を追って、元の世界に戻ったはずの、ハクの竜神としての力を宿した人形が、千尋を欲して、湯屋を占拠したのは、そのすぐ直後だった。銭婆の行動はすばやく、釜爺と連絡を取り合い、しかし、助ける事ができたのはリンだけだった。千尋を守るために、リンとカオナシは共にこちらにやって来た。以来、こちらに残り、共にある。
カオナシは、時々思う。
「千尋を守るためにここにいるのか」
それとも。
「リンのそばにいたいのか」
数度の、銭婆からの召還を、カオナシは辞していた。銭婆は、深くは問わない。
「因果だねえ、お前も」
そう言って、笑う。そして、こうも言った。
「麻燐婆に、気を許すんじゃないよ」
カオナシは、己の主の洞察力を信じている。そして、今回の一件が、銭婆の危惧するところなのではないか、とも、思っていた。