千尋のマンションに来るのはこれが始めてではない。何を見込まれたか、数学の家庭教師を頼まれて、週に1日、2時間で4千円、おやつ夕食付。世間的な相場としてはやや落ちるのかもしれないが、公明正大千尋と時を共にできるのであれば、いっそ給金もいらないのだけれど。と、埒も無い事を考えながら、僕は呼び鈴を押した。
ややあって、扉が開くと、おかしいのを必死でこらえている、という風情の千尋が笑いをかみ殺しながら、苦しそうに、
「いらっしゃい」
と言った。
「…何かあったの?」
と尋ねると、彼女は中に入れば解ると言う。そして、通されたダイニングでは、僕と同じ顔のもう一人が、窓際でカーテンを後ろ手に掴みながら、真っ青な顔でうろたえているのが見えた。
「は…?!」
想像もしなかったうろたえぶりに、一瞬僕は我が目を疑った。
何と、言えばいいのか、狼狽した時の自分の顔をこうも客観的に見ることになろうとは思わなかったし、特に「彼」はそうした事から最も縁遠いのではないのかと、勝手に思い込んでいたのかもしれない。ただ、それはまぎれもない事実で…。
「何があったの?」
振り向いて千尋に尋ねると、盆の上のちまきを指差した。
「ちまきが…どうかした?」
ひとつ手にとってみると、
「うわああああああ!!!」
真っ青に、さらにカーテンが上にずれるほど窓にその姿を押し付けようとする彼が見えた。
「………。」
僕はちまきをひとつ手にとって「彼」の方に向けてみたりする。
顔面蒼白、額には脂汗をうかべ、口元は引きつっている。いつもの超然とした表情はみじんもない。僕は何だかおもしろくなってしまって。
「ほーれほれ」
と、両手にちまきを持ってじりじりと歩み寄ってみた。
「ばっ、馬鹿者!『それ』を向けるな、近づけるなあああああ!!!」
後半、それは涙声のように聞こえた。
…もしかして、『このこと』をもっと早く知っていたら、かつての騒ぎは無かったんじゃなかろうか、と、僕は漠然と「彼」に殺されかけた事を思い出し、ふと考え込んでやっぱりかぶりを振った。
いや、僕を人として逃がす為「あちら」に残った僕の半身。千尋に会う事もかなわず、ただ竜としての力のみを利用され続けた「彼」を、小憎らしいとは思いながら、もしかして僕はいとおしく思っているのかもしれない、などと漠然と考えてみたりもした。よくよく考えれば「彼」がいなければ「今の僕」はありえないのだから。
思いがけず垣間見てしまった「彼」の弱さに、僕はいままでだったら到底考えつかないような事に思い至っていた。
…と、思いながらも、ちまきを持った手はどんどん彼との距離を詰めて、いっそう彼は情けない声をあげてはいたのだけれど。
うーん、…おもしろい、かもしれない。
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