何故苦手なのか、どうして恐怖を感じるのか、わからない事。というのはあるものだ。…たとえば、人が擦りガラスに爪をたてる音を生理的に嫌悪したりするように。(これは以前千尋が、引越し時、食器棚を運んでいる際悲鳴をあげたので知っている)
何故アレをこうまでして怖がるのか、私自身にもわからない。
龍だからなのか。それとも失われた神としての記憶の中に封じられている何かのせいなのか。ともかく、…この状況は許しがたい。
私の目の前で、同じ顔をして、嬉しげにせまってくる奴の手にある「アレ」。
香りが嫌なのか、色が嫌なのか、はたまた形が嫌なのか。深く考えることさえいといたくなる程に。
「ええい!いいかげんにせぬか!!」
一喝し、私は開かれていた窓から、龍に転じて、空に舞った。
「あっ!おい!」
追いかけてくる声。千尋とあいつを二人きりにするのは本意では無いが、この際いたしかた無い。とにかくこれ以上醜態をさらすのは耐えがたかった。
千尋父子の住まう「まんしょん」(社宅とも言うそうだが)には屋上に庭園があり、誰が管理しているかは知らぬが、建物だらけのこの地にあっては形ばかりの緑がある。千尋が眠る間、(本当は横で並んで眠りたいところだが)や、風呂に入るとき(同上)、ここに来てわずかに憩うのが救いとなっていた。
やれやれ、と息をつき、芝に落ち着く。
空の色さえ、この町はよどんでいる。白い鱗が埃にまみれ、喉の奥がヒリついた。この地にきてから、私は神に出会っていない。みごとな桜並木に囲まれた川にも、地下に流れているという川にも、主となる神がいるはずなのに、眠っているのか隠れているのか、姿を見せない。それだけではなく、おそらくは神域であろう場所場所は、空間そのものが閉鎖されていて、中の様子を伺い知ることさえ困難だった。飛び交うのは、一定周波の波動のみ。
人と神が、完全に区画整理されて、お互いの領域を侵害しないのが、この町のやり方なのか、とも思ったが、私には関係の無いことで…。
私が姿を消して、千尋とあいつは仲良くやっているのだろうか。ふと、そんな事を考える。
父親のためだと私を偽ってまで作り上げたまふらーを渡しているのだろうか。
千尋は、多分知らない、私の目を盗んでまでする奴との逢瀬を楽しむ様を、どんな思いで私が見つめているのかを。邪魔をしたところで、あの夢見るような視線を、千尋が今の私に向けることはないのだ。
千尋にとっては、同じ姿。かたや人間、かたや龍…とはいっても、姿を持たない宙を漂うあいまいなモノ。年頃の娘がどちらに惹かれるのか…。「てれび」という箱に映し出される数々の物語を、見るたびに、私と千尋の間にある大きなへだたりを感じずにはいられなかった。
戯れに、奴の邪魔をしたところで、少しばかり波風がたつだけで、望む結果は得られない。ますます千尋の視線に熱がこもるだけ。
本当に、愚かな事だと、苦笑する。
それでも、私は千尋の傍にいたいし、一番身近で彼女を守りたい、と思う。
てっとり早く、肉体を得る方法も、実はないではないのだが、「それ」を千尋に実行させる事はできない。奴も、喜んで協力するであろう事もわかる。だがその方法では、私の力は赤子並に戻り、その間、千尋の守りは不在になる。そうなるわけにはいかなかった。
千尋は、神に魅入られやすい娘。
前世からの因縁か、彼女に近づこうとする輩は多い、皮肉にも、神と人の住み分けのされているこの町では未遂だが、前の町では数回あった、他の神からの接触を、私が絶ってきた事実を千尋に言うつもりはなかったが…、さすがに今日は少し滅入った。
まったく、奴ときたら…。近頃は「かていきょうし」など称して通って来る。油断がならない。
…今日はもう、ここでフテ寝を決め込もうか、と、思った時に、カンカンと鉄の階段を昇ってくる音がした。
「本当に、こんなところにいるのかな?」
「うーん、多分…、ハク、木のある所が好きだし…」
どうやら、二人が「仲良く」探しに来たらしい。…いかん、ますます滅入ってきた…。私は二人に気取られまいと、姿を隠す。
「ちょっとやりすぎちゃったかなあ」
殊勝げな事を言っているが、本心はどうやら…。私は小さく毒づいた。
「あのハクに苦手なものがあるなんて思わなかったし…でも、何でちまきがダメなのかな?」
「ちまきの食べ過ぎで腹を壊したことがある、とか…」
!!なんと!言うに事欠いて!私はそんなに意地汚くはない!…すぐにでも出て行って訂正したい気分だったが、気を逸してしまったか、動く気にはなれなかった。
「…いくらなんでも、それはないと思うけど…」
そうだ!千尋!もっと奴に言ってやれ!
「どちらにしても、今回の件で僕は少し安心したよ」
「何を?」
「彼が以外に人らしい…というのかな、正直、同じ顔、半身と言われても、どこか超然としていて、まあ、神の魂のカケラなわけだし、得体が知れない、と思っていたからね、少し親しみがわいた」
別にお前に親しまれたくは無い。
「そう?私はあちらのハクもすごく人らしい、って思ってたけど…、TV好きだし、一緒にいると安心するし」
奴の表情が凍った。気づいていないのか千尋が続ける。
「安心する?…一緒にいると」
「何だか、お兄さんみたいで」
今の一撃はひときわきいた…私は、…私は、そうか、兄…。千尋は、私をそんな風に。ちくり、と胸が痛んだ。
「…じゃあ、僕は?僕といると、…どんな気分になる?」
「え!?」
!!何とした事か!何時の間にか、奴は千尋のごくごく近くにいた。奴と千尋の視線がぶつかり、二人の間の時が止まる。何故だ!千尋!どうして頬を染める!
不埒者が!ちっ、千尋の…手をッ!!
…ええい!!
「何をしている!!」
「うわああああっ!」
「きゃっ!」
「ちょっと目を離すと貴様はっ!」
ずい、と、眼前に例のモノを出された…が。
パーーーーーーン!
と、ひときわ大きな音がして、「アレ」が弾けとんだ。
「なっ…」
奴の顔が、青く変わる。アレさえなければこちらのものだった。
皐月晴れの真っ青な空に、やいのと響く声。
実は、こうして、ばたばたと騒ぐのも、嫌いではない、と思っているのは、よくないことだろうか、と千尋は思っていた。
マフラーは、まだ、引出しの中のまま、今は、まだ、このままで…。
(了)
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