夕暮れ。逢魔ヶ刻。
光と闇の入れ替わるこの瞬間を、いつも懐かしいような、恐いような思いで、少女は学校からの帰り道を歩く。
遠い約束。既に擦り切れた記憶の彼方の少年を思い出す、こんな夕方は、決まって、見たくないものを見る。
荻野千尋。16歳の誕生日を間近に控えた、高校1年生。
10歳の頃、神隠しに遭って以来、彼女はいわゆる人ならぬものを見かけるようになっていた。必ずでは無い。時たま、ラジオのチューニングが合うように、ふっと、見えるのだ。初め、それが、自分以外の人間には見えないとは自覚はしていなかった。
だが時々、自分の視線の先にいるモノを、申告するたびに、脅える友人や両親を見るようになり、いつしか、それは口にしてはならない事なのだと、思うようになっていた。自分が人と違う。それは、少女が背負うにはあまりにも重い事実だった。全てを気のせいにするには、それらはあまりにも鮮明すぎた。時に視線を向けられることもある。
耐えがたい孤独を過ごし、彼女はこう結論づけることにした。「あれら」は存在していない。すべては…錯覚なのだと。だが、視界に入ってくるものをすべて締め出せるほどの集中力には至らない。
そして、今日のように、やけに夕日が綺麗で、ヘンに明るい夕暮れは、まずいのだ。
逢いたい…と思う者には逢えないのに。
燈る灯り、逃げろと言った少年を待って、1年が過ぎ、2年が過ぎ、気づけば、もうじき6年になる。果たされないであろう約束を、いつまでも気にかけているわけにはいかない。と思いながら、今だに、
それでも逢えたら…と。思うのだ。この奇妙な視力は、その為にあるのだと、信じたかった。
チリン…。
どこかで、鈴の音がする。
チリン…。
鈴の音が、耳から離れない。奇妙な焦りを感じ、家に向かって駆け出した。
何故だろう。嫌な予感がした。
新興住宅地の高台へ抜ける一本道を駆け上ると、途中に、朽ちた木と、鳥居がある。
人影を確認し、心臓が飛び上がった。
足がすくむ。
金縛りにあったように、動けなかった。
それは、背の高い男で、黒い狩衣、長い髪を後ろで一つにたばね、出だし絹は赤い。黒い狩衣に、赤が映える。
顔を見て、仰天した。
「…ハク?!」
6年、忘れた事は無かった。既に少年の面影は無い。だが確かにそれは、約束の人。
心臓が高鳴る。でも、何故だろう。違和感を…感じる。
「逢いたかった…。」
薄く微笑む。艶然とした、蠱惑の笑み。
これは、魔だ。
千尋が一瞬後ずさる。
「私を…忘れたのか?」
「ううん!そんな事無い!…ちゃんと、覚えてるよ。約束。…いつこっちに?」
はぐらかすように、質問を畳み掛けた。自然、体が逃げている。
すう。と、足音もさせずに、ハクは千尋のすぐそばに来る。腕を掴み、抱き寄せ、顔をあげさせる。切れ長な視線に囚われる。
逃げようと、体を離そうとすると、もう片方の腕も掴まれた。
「何故…逃げるの?」
首をかしげる、ハクのまっすぐな瞳を見つめ返すことができない。あんなに、逢いたいと強く願っていたのに。
「そんな事…」
無い、と思わず視線をそらした。
もう、お互い子供では無い。千尋が、10歳の少女ではないように、ハクも、12歳の少年では無いのだ。
千尋の首筋を、冷たいハクの指が這う。
固く、目をつむると、いつの間に腕を離されたのか、もうハクは体を離していた。
「今日は、顔を見に来ただけだ。近いうちに、迎えをよこすから。それまで、これを…。」
そう言って、千尋が握らされたのは、小さな赤い房のついた紐の鈴だった。
「あ・・・。」
声をかけようとすると、突風が巻き起こり、ハクは視界から消えた。うれしい筈の再会なのに、この胸の不安は何だろう。
掴まれた腕が、赤くなっている。
気が付くと、既に西の空には宵の明星が輝き、あたりは闇につつまれようとしていた。しばらく千尋は呆然と立ち尽くした。