その時だった。扉が大きな音をたてて開く、抜き身の刀をたずさえ、走ってきたのだろう、肩で息をしている。
「千尋!!」
叫んだのは、もう一人のハクだった。
寝台の上で、千尋に覆い被さる黒衣の男を見て、白い衣の剣士が構える。
「千尋を…離せ。」
無粋な闖入者に眉をひそめながら、黒衣の魔物が起き上がる。
「ちょうどよい、手間が省けた。」
黒衣の魔物の体から力が抜け、一気に千尋の体に覆い被さった。冷たくて、重い、塊…が、その瞳には既に光彩が無い。
「…人形?!」
人形の体を千尋がはねのけると、ハクの周囲を闇色のもやがかかっているのがわかる。
「ハク!!」
もやが、体を取り囲む、刀で薙ぎ払うが霧散するだけで、すぐにまた集まってくる。
うめきにも似た、ハクの叫びが、体内に侵入したモノがあることを知らしめた。
膝をつき、刃を床につきたてる、意識と意識が葛藤している。肉体の主導権をめぐり、二つの魂がせめぎあっている。
千尋にとってはわずかな時が、
二人のハクにとっては長い長い時が流れた。
元は一つであった魂は、既に乖離し、異なるモノとなっていた。混ざることのない、二つの意識を…支配したのは…。
「…やっと、戻った。」
振り乱した髪の隙間から覗く、翡翠の瞳が、千尋を見て、笑う。
「…あなたはっ…。」
「どちらが良かった?千尋。『僕』と『私』と。」
意地の悪い笑み。
「どちらも、ハクだ。そなたにとっては。…だが、『私』にとっては違う。元が同じであろうとも、千尋は一人、渡す気は…無い。」
「…もう、一人の、ハクは?」
「まだ、かすかには残っている。…が、すぐに消えるだろう。」
何て事だろう、人として、生きてきた、彼の人生が否定される。自分が自分でなくなる感覚には、覚えがあった、名を奪われて、センであった頃、千尋としての自分を見失いそうな不安、助けてくれた、ハクだったのに。
「そんな、どうしてっ…。」
どうして、そんなひどいことができるんだろう。
「全ては…そなたの為に。」
そう言って、笑う。
支配しているのは、あるいは、狂気なのか。
千尋は、寝台を飛び降りると、ベランダに向かって走り出した。
追いかけるハクの手をすり抜け、手すりに身をゆだねる。遠くに、電車の音がした。
「来ないで!」
ぴしゃりと言い放つと、千尋は手すりを乗り越えた。
「何をする気だ…。」
ゆっくりと、ハクが近づいて来る。
「どうして…、ひどいことをするの?」
「すべてはそなたの為、そなたに再び会う為だ。何がいけない…。」
繰り返されるハクの言葉に、千尋は意を決した。
「私の為だと、私のせいだというのなら、私の答えは、…!」
油屋の楼閣、海を見晴るかす展望台、千尋は、その身を躍らせた。