もはやかつての面影の無い、荒れすさんだ油屋に神々を迎える蛙男達や湯女の姿は無い。それでもどこかに隠れているのか、確かに、モノどもの気配はしていた。どこかから隠れて様子をうかがっているのかもしれない。赤い橋を渡った先で、蟇蛙の笑みを浮かべた黒紋付の男が立っていた。既に黒鹿毛から降り、手を引かれてやってきた白無垢の花嫁の手を、紋付の男が取ろうと手を出した。ためらいがちに花嫁が手を引くと、にやりと嫌な笑いを見せて、蟇蛙男が踵を返した。
「婿様がお待ちです。」
そう言うと、花嫁を先導するように歩きだした。
ぼんやりと暗いその建物を音も立てずに歩いていく。
回廊を渡り、昇降機を昇る。かつては色鮮やかな絵が描かれていた襖はところどころに穴が空き、すすや、蜘蛛のすみかとなりはてている。
奥の、幾つもの襖の先、ひときわ大きなそこは広間で、荒んだ建物の中にあって、おそらく唯一の明るい場所だった。宴の用意はまだされていないのか、広大なその部屋にいるのはただ一人。
黒い直衣。漆黒は複雑な模様を浮かべる絹。赤の映える、背の高い、髪をゆるやかに結った男。ハクだった。
いつの間にか、蟇蛙男はいない。取り残されたのは白無垢の花嫁と、黒衣の花婿。真っ直ぐに向き合う。
「約束通り、迎えをやった。会いたかった…千尋。」
その顔は、驚くほど優しく、一瞬花嫁はたじろいだ。
花婿が追い、花嫁が向かい合ったまま後ずさる。…が、すぐに花婿が追いつき、花嫁の手を取ろうと、腕を差し出した、刹那。
白無垢が翻り、姿をあらわしたのは、花婿と同じ顔。白い綿帽子の下に着込んでいるのは花嫁衣裳ではなく、白い道着。そして、隠して手に携えているのは漆の鞘に収まった太刀だった。人となった、もう一人のハク。
黒衣のハクと、白い道着のハク。人の手には太刀があり、間合いに入れば即座に断ち切らんとする殺気があった。
「残念だったな。千尋でなくて。」
構えを解かずに、白いハクが言う。
「お前か…。人になった身で、この私に刃向かうと?」
間合いを詰めず、黒いハクが言う。先ほどの優しげな顔では無い。同じ顔かと思うほどに冷たい眼差し。
「ちょうどいい、どのみち、その体には用がある。自らのこのこやって来るとは好都合。」
言うやいなや、間合いに入り込み、下から首を持ち上げようと手を伸ばした、が、それより早く、人の太刀が一閃する。
確かな手ごたえと、うずくまる魔の姿。髪を結っていた紙が引きちぎられ、漆黒の髪が広がる。左手で覆った顔から血のしずくが滴った。
「おのれェェ!」
魔から、涼しげな表情が消える。脆弱なはずの人は驚くほど落ち着いて構えを解かない。再び鞘に収められた太刀が、反撃の為構えられる。
逆上した魔が再び人に襲い掛かる。無防備な強襲に、人の太刀が刃をつき立てた。
確かに、仕留めた。…筈だった。
つき立てた刃の手ごたえは空を切り、切っ先にあったのは一枚の紙の人形。
刃のつきたてられた人形がひらひらと舞い落ちてくる。
「…しまった!」
読まれていた。仕留めるべき魔の本体はここにはいない。では…どこに。太刀を三度鞘に収め、広間に魔の気配が無い事を悟ると、ハクはその場をあとにした。
己にまつわる禍根を断つため、そして少女を守るため。白衣の剣士は同じ顔をもつ魔物を探して走り出した。