夜の森は、いっそう闇が濃い。うっそうとした常緑樹にさえぎられ、遠くの町の明かりも、星も月の光さえ届かない。ただ、その闇の中にあって、清水を湛える淵だけは、森を切り取り、光を映す。わずかな光を求めてか、闇の眷属でさえ、体を癒す場所…。かすかな水音に混ざり、荒い息使いが漏れてくる。
黒の狩衣の青年は、岩にもたれ、肩で息をしていた。わずかな力を得る為に、淵にかがみ込み、澄んだ水に手を差し伸べる。喉を潤し、唇からわずかにこぼれた水が輝く。岩に全身を預け、天空を仰ぎ見、大きく息をついた。
急がなくてはいけない。もはや、この身は限界に近く、愛しい少女はすぐそこにいる。失ったものを取り戻す。その為には、どんな事でも、鬼にでも、邪にでもなろうと、誓った。そのはずなのに、何故だろうか、胸が痛む。
喜ばしいはずの再会。抱きしめたいと思った娘に浮かんだ表情は恐怖。
より多くのものを失いすぎたのか、ただ、引き返す道は既にないのだ。
規則的な水音が、ハクを責めるようにさいなんだ。
百道家の風呂場は総檜造りで、木の香りが心地良い。同じ水源の水を使っているはずなのに、清らかなものに思えるのは何故だろう。
千尋の家の、一人入ったらそれでいっぱいな浴槽と違う、広々とした湯に、リンと千尋は並んで入っていた。
「いいな、リンさんは色が白くて。」
うらやましそうに千尋がぼやく。
「何言ってんだよ。千尋こそ、このあたり随分育ったじゃん。」
にやりと笑って後ろから手を回され、下から乳房を持ち上げられた。
「やだ!そんなとこ触んないでってば!」
きゃあ、きゃあと騒ぐ声が湯殿に響いた。
雨に濡れた体を充分温めて、借りた浴衣に着替える。
指定された和室は20畳はあろうかという広い部屋で、身の置き所に迷いながら、リンと千尋は座布団をとり、中央に座した。
ほどなく、ハクがもう一人背の高い男を連れて入ってきた。右腕を包帯でつっている。
「リンさん…といいましたね。礼を言います。真人を助けてくれて。」
包帯をした背の高い男がまずリンの前に座し、頭をたれた。
「何もしてねえよ。ぶっ倒れて、ハクを助けて…、なんて言われたらさあ。ほっとけないじゃん。で?あの兄ちゃんどうしてんの?」
「別室にて休ませています。とにかく衰弱がひどくて、今は点滴を。侍医の話だと、血液中の酸素がほとんど無かったとか。酸素吸入でようやくもちなおしてはいますが…。」
千尋にはまったく話が見えない。怪訝そうな表情を見て取って、ハクが説明を付け加えた。
「僕の従兄弟が、あいつに襲われたんです。」
『あいつ』というのは、黒い舞手、もうひとりの、黒衣のハクのことだろう。
「リンさん、『あいつ』は何者なんですか?僕と同じ顔で、真人兄さんを襲い、僕に死ねと言ったあいつは。」
今度はハクがリンに詰め寄る。
「うっわああ、ハクに『リンさん』なんて、何か気持ち悪いなあ。」
居心地悪そうにリンが肩をすくめる。
「貴女は僕を知っているんですか?」
「うーん、どっから話したらいいんだろうなあ。」
リンは千尋とハクを交互に見つめ、考え込むと、6年前の事を語り始めた。それは千尋も知っているカオナシの件もあったし、千尋一家が神隠しに逢い、不思議の町に迷い込んだいきさつ。そして、千尋の帰ったあとに起こった事だった。
「俺も詳しいことはわかんないんだけどさ。とにかく、ハクは湯婆々と話をつけて、元の世界に戻ることになったんだけど…、湯婆々が条件を出したんだ。…身につけた力の全てを置いていく。という。」
「力の…すべて?」
「湯婆々は、ハクの力を人形に移し、その後、ハクは元の世界へ…というわけさ。」
「それが、僕。」
「そう、しっかし、記憶も無くしてるとは思わなかったよ。」
「…もしかして、記憶はあっちのハクが持っているんじゃない?」
「ああ、そうか。だから…。」
リンが唇に指をあてて考え始めた。
「千尋、俺がこっちにきたのは、お前を守る為でもあるんだ。ハクが、お前を望んでいる。そして、多分、人として生きているあんた、…ハクの体も。」
ハクが、心と体に分裂したなんて…。そして、自らの体を再び取り戻そうとしているなんて…。千尋は呆然と、遠くに聞こえるリンの声を聞いていた。
「ついこの間まで、そんな事は俺達には知らされてなかったんだ。何しろ、ハクは元の世界に戻ったって聞いてたし、しばらく姿が見えなかったから。それが、ついこの間さ。突然現れたんだ。黒い狩衣。長い髪。そして、強い力。湯婆々も坊も追放されて、今じゃ油屋はあいつの居城みたいなもんさ。千尋を探して暴れる様はカオナシよりタチが悪い。釜爺が俺を逃がしてくれてさ、んで、銭婆にこいつを借りて、」
そう言うとリンはカオナシの入った竹筒を降った。
「こっちに来たんだ。」
「銭婆が言うには、あいつの人形の体をこっちの世界で動かすために、別の生きもんの魂を喰わなきゃいけないらしい。」
「そして、真人の魂は喰われたのか。」
包帯を巻いた男、真人の双子の弟の理人がうめいた。
「多分、あいつは千尋か、本体の持ち主であるこっちのハクか、どちらかの前にまた現れると思う。それがどちらかは…俺にはわかんねえけど。」