生き意地のはった方であられる、と、ハクは手桶ののった盆を床に置きながらため息をついた。食い意地ならともかく、生き意地とはなんぞや、と五体満足であれば問い返すであろう生真面目な蒼仁であった。
油屋でも最も豪奢な一室は、天井といい壁といい、極彩色の絵画で埋められ、誠に落ち着かないが、絹の布団は肌にすべらかで心地良かった。半身を起こし、公子……ハク手ずから包帯をまきなおそうとするのを辞し、自分で……と、言いかけたところで待ったがかかった。
「私にやらせてくれないとおっしゃるなら、代わりを呼びましたのでこちらへ……」
ぱんぱん、とハクが手を叩くと、視線を投げたふすまが開いた。居並ぶ女達に一瞬蒼仁は目がくらむ。しどけなく、しなを作るもの、流し目を送るもの。桃色の色香に当てられて息がつまりそうになる。困惑の表情をおもしろがられている自覚はあったが、制御できるほどには修行ができてはいないらしい。
「……お願いいたします」
しぶしぶ、公子御自らの手当てを謹んで受ける事とし、素直にその指示に従った。
しゅるしゅる、と包帯を解く音、ひやりとした指先を、蒼仁は背に感じた。背中から回された指先が患部に塗り薬をつける。指が動くたび、柔らかな髪が蒼仁の背をくすぐり、背筋に息がかかる。塗り薬は、一瞬しびれるように傷口に染みたが、塗られる内に痛みは和らぎ、代わりにすう、とした爽快感に変わっていった。痛みが揮発していくようにひいていく。ゆるやかに傷口は青銀の鱗に変わり、パリパリと剥がれおち、そしてまた新しい、より強固な鱗で覆われた。
「あきれた回復力ですね……さすが武人、と言うべきか」
その武人を鼻先であしらったのはどこのどちら様でしょうか、と言いたい気持ちをぐっと堪えて、蒼仁は回復した腹をさすり、背後に座るハクに顔を向けた。斜め後ろから見下ろす公子の表情は相変わらず柔らかであったが、真意を読み取ることが難しい事に変わりは無い。
「……公子、お気持ちは」
そうした必死の蒼仁の眼差しを、ハクはどこかで見たような気がして、容易に目を背ける事ができなかった。
「いまさら……とは、思われませんか?」
そう答えて柔らかく微笑むハクに、ようやく表情らしいものを、蒼仁は読み取った。
……哀しみ。そこには、子供じみた、置き去りにされた哀しみがあった。
「龍王、王妃におかれましては、公子がお隠れあそばした頃よりあきらめることなく、今日の今日までお探し続けておられました、そのお二人のお気持ちもまた、……お察しあれ」
向き直り、蒼仁はハクにひざまずいた。
「そう言われてしまうと、私に返す言葉はありませんね」
一言だけ答える、ハクの言葉に、蒼仁は頭を上げる事ができなかった。力ある身であれ、何の後見もなく、ここまで生き抜いてきた事は奇跡に近い。苦労も多かったであろう、父母が見つかりました、ああ良かった、で済む話でない事は蒼仁にもわかる。しかし、起きてしまった事実を遡って書き換える事はできないのだ。
恨むとすれば、龍王、王妃を襲った伽楼羅をこそ恨むべきだろう。
そして今、龍王一族は伽楼羅の脅威にさらされている。
「復讐する気持ちはありませんが……、そうですね、強いて言うなら、私もまた、ここを出たがっているという事かな」
その言葉に、蒼仁が表を上げる。
「……では!」
「殺生は好むところではありません、しかし、私には果たさなくてはならない約束がある、それでもよければ、私はあなた方と共に油屋を出ましょう。掟を越える、その血族の責務のために」
ふ……と、ハクの視線が蒼仁を通して、どこか遠くを見つめるようにおちると、蒼仁はそれを解さず、再びハクの眼前にひざまずき、足先に軽く口づけた。
「身命をとして、御身をお守りすると誓います」
「……あまり、軽軽しく誓いの言葉を口にするものではありませんよ、そうなったら、貴方は私の客人ではありません、私は貴方を盾にして逃げ出すくらいたやすく出来る、……それでもよろしいか?」
「本望なれば」
見上げた蒼仁の視線と、見下ろすハクの視線がぶつかった。それをさえぎるように声がかかる。
「おーっと、俺も忘れないでいただけると助かるんだけど?」
首筋から頬から、紅だらけにした色男が、何時の間にか部屋へ戻って立っていた。……朱礼である。
朱礼は夜着のまま、蒼仁の横にひざまずき、同じように、うやうやしくハクを見上げた。
「螢惑将(けいわくしょう)、朱礼、公子への忠誠を、心から……」
とりすました朱礼の顔を一瞥すると、ハクが答えた。
「お言葉通りの意味だとよろしいのですが……」
「ハテ? それはまた……」
互いに互いを食えない相手と認めている二人のやり取りに、蒼仁はいささか困惑しながら、先をこした朱礼に続き、誓約の言葉を述べる。
「同じく、歳星将(さいせいしょう)蒼仁。……心よりの忠節を」
相変わらずの白い水干で童姿の青年の前に座す二人の武将は、片や創痍の半裸姿、片や極彩色の夜着姿。神妙ではない外観とは裏腹に、その誓いは厳粛であった。