夢の話・三題


3.闇の道行

 幾分安らかになった寝息をたてる少女を、愛しく眺め、頬に手を触れてみる。高熱の余韻が、ほのかなぬくもりとなって伝わってくる。体を持たない身であるのにもかかわらず、この少女への五感を絶たれなかったのは救いだった。もう一人、自分を見ることのできる存在はいたが、それはこの際無視している。

 直接触れなければ…と、「あいつ」には言ったが、実はそれは嘘だった。意識で練った水の珠は直接術者の感覚とリンクしている。結果的に、千尋の熱は下がったし、これはむしろ役得というものだ。と、開き直ってはいるが、素肌に触れた時よりも、こうして安らいだ寝息を聞いている時の方が、鼓動が増す事の妙を感じていた。

「んんっ…」

 軽く身じろぎをして、千尋がうめいた。下がったはずの熱が再び上がってくる。

 黒ハクは、かすかな気配を感じ取った。

「…、誰かが千尋の夢に干渉している…?!」

 仰ぎ見ると、朧な春の月、かすかな花の香りの中に、巧妙に隠れようとする邪気があった。

 あるいは、それが、高熱の原因か…?と、うなされ始めた千尋を一瞥し、邪気を辿るように空に舞った。

 春宵の月の光が降りかかる空を、炙るような人間界の光の渦が、禍々しく彩る高層ビルの屋上に、その邪気のモトは「いた」

 空に舞う白い竜の姿を確かめると、邪気は嬉しそうに微笑んだ。

 白い竜が邪気を捉え、舞い降りようとすると、「それ」…背の高い亜麻色の長い髪の男が飛び上がり、空中で竜と交差した。亜麻色の髪が甘い香気を放ち、囁く。

「…会いたかった、…やっと、見つけた」

 白い竜が空中で静止し、振り返ると、朧の月を背に、人の形をとった邪気が笑う。

「愛しい娘に会えたようだね」

 クスクスクスクス…。

「せいぜい大切にすることだ」

 そのまま月の光に溶け込むように、ゆっくりと天高く舞いあがった。

 白い竜は、金縛りにあったように、月を眺めていた。



「あ…、もう熱は?何か食べるかい?お腹…すいただろう?」

 後ろめたさから、続けざまにまくしたてて、白ハクははっとした。

「ありがとう…、もしかして、1日中ずっと…側に?」

 首をかしげて覗きこむ表情の可憐さに、先ほどの夢と相まって白ハクの妄想が一瞬形となった。あわててかき消すように首を振る。裸足のままの千尋を見て取ると、あわてて自分のスリッパを脱いだ。

「熱があったのに、裸足だと体を冷やしちゃいけない」

 千尋の足元に膝まづくと、千尋の手が軽く肩に触れた。見上げるハクと、見下ろす千尋の視線が交錯した。

「ありがとう…」

「いや、僕は何もしていない、礼なら、あいつに…」

 泳ぐように視線を逸らす。…自分自身の鼓動で耳が痛くなりそうだった。

「…千尋」

 触れた手を握ろうとした、その時。

「何をしておる」

「うわーーーーーーっっっ」

 唐突に、まさしく、ぬうっと、現れた黒ハクに驚いて白ハクがしりもちをついた。

 まさに蒼白な白ハクを見て、黒ハクが不適に笑う。

「…まったく、油断も隙もあったものではないな」

 白ハクから引き離すように黒ハクが千尋を胸に引き寄せる。

「なっ…!?」

 立ち上がり、白ハクも身構えた。

「ねえ…?」

 にらみ合う二人に割って入るようにして、黒ハクの腕から逃れた千尋が問う。

「どうやって、私、着替えたの?」

 途端に、バツの悪そうな顔で二人が千尋から視線を逸らした。

「…何を言っている、千尋、そなた、みずから着替えたのだぞ」

 事もあろうにとんでもない嘘が黒ハクの口から出る。

「…そうなの?私、ぜんぜん覚えてないんだけど」

 怪訝そうに二人を見つめる千尋の眼差しは懐疑に満ちている。

「君は…っ!なんて口からでまかせを…」
「ほほう、では、そなたが千尋の裸体を見た事を告げてしまってもいいんだぞ?」
「君だって…」

 小声でひそひそと言い合う様がいっそう怪しい。

「ハク?そうなの?」

 再びの問いかけに、引き攣らせた笑顔で二人のハクが揃って頷いた。他愛なくも秘密を共有するハメになった二人の間に友情が生まれたかどうかはともかくとして。

 千尋の身に、災厄が近づいている事を確認してしまった龍神たるハクは、千尋を守る決意を固めていた。そして、それは、どんなに不本意であっても、この人の身を持つ半身の手助けなくては達成できない事も…。

 一見なごやかそうに過ぎていくさなか、動き出した闇が、序々に近づいていく気配を、千尋は未だ察知する事ができずにいた。


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