水出家を出て、千尋のマンションに戻ると、既に10時を過ぎていた。手早く千尋が食事の支度をして、遅い夕食をとっていると、再び電話が鳴った。…今度は父からで、今夜も終電近くなる、という事だった。
「…大丈夫かなあ、お父さん、体、壊さないといいんだけど・・・」
父の分の夕食を、冷蔵庫にしまい、ぱたぱたと、スリッパの音をたてながら、リビングに戻ると、疲労困ぱいしたらしく、ソファで眠り込んでいるハクの横を、黒衣のもう一人のハクがふよふよと漂っていた。
「まさか、再び、一つ身に戻ろうとはな…」
眠っている半身を眺めながら、ハクはひとりごちた。
「ねえ、…ハク?」
眠っているハクの、向かいのソファに腰を降ろして千尋が見上げた。
「何だ?」
「私と、ハクがね、始めに飛ばされた所、地下の、水脈みたいなところだったんだけど、そこで、小さな子に会ったの。面をつけて、奇麗な衣装をつけていたんだけど…」
「そなた達を私の元に運んだ奴だろう、途中で姿を消したな」
すぅ、と、千尋の横に、黒ハクが座った。
「あれが、恐らく、あの水妖妃と名乗ったモノの子であろうな、…川で死んだものは、川の神に魅入られて、そのままその眷属になるという…私も、そうだが…」
「ハクも?!ハクも…川で?」
千尋が、ハクの方に向き直った。
見つめ返す千尋をいとおしく眺める。遠い、記憶。守りたかった少女。
「…もう、ずっと、昔の話だ…、私も、ほとんど、覚えてはいない…」
「じゃあ、あの子は、お母さんには…?」
「あれは、既に完全な魔だ、神の眷属とは、対極にある。共にあろうとするならば…合反する力で、共々に、消えてなくなる」
「…そんな…」
うなだれる千尋の肩に、そっとハクの手が触れた。誰にも見えない、存在しない筈なのに、その感触が、確かに、伝わる。
「今度の件で、理沙の身内の者も考えを改めるとよいのだかな、半ば、アレは、一族の妄執と相まって、完全に現世に囚われてしまっている、せめて、解放することができれば…少なくとも元の魂は救われるのであろうが…」
ハクは、水妖妃の口にした「あのお方の助力」というのを、千尋には伝えない事にした。知らせる必要は無い、この手で、千尋を守るのだから。もし、今回の件に関わるモノが、かつて、千尋の夢に干渉してきた、古よりの因縁により現れたモノであるならば、…なおのこと、知らせるわけにはいかなかった。
「…何か、隠してるね」
「うわっ!!」
いつの間に目を醒ましたのか、それでもまだ疲労の残った態で、起き上がったハクが乱れた髪をかきあげた。一時、融合した際に、瞬時に伸びた髪は、今では元の長さに戻っている。
「…何も、隠してはおらぬ」
ふんぞり返って黒ハクが腕組をする。
「それより、そなたはもっと鍛錬が必要だ、でないと…その体、心ごと私がいただくぞ、…かつては失敗したがな」
そう言う黒ハクの瞳は、以前のような魔性の笑みではなかったので、千尋は少しだけ安心した。
「ああ、そうだね、逆に君を取り込む事も、できるかもしれない」
ひとつの体でせめぎあった二つに分かれた魂は、一度溶け合うごとに、より近づくのか、そう言った白ハクの瞳も、どこか穏やかだった。
確実に、何かが変わろうとしている。そして、それは、第三者によってより速度を増しているのではないのだろうか、と、千尋も漠然と考えていた。今はまだわからないけれども…。
水妖妃・(了)