水妖妃(1)


「あれ?もしかして、荻野…千尋…ちゃん?」

 同行してくれるはずの父は、結局仕事で来ることができず、千尋は一人で事務室から校長室、職員室とたらいまわされているところだった、対角線上に位置する建物から建物へ。職員室へ向かう途中、名前を呼ばれて振り返った先に、見知った顔を見かけておどろいた。小柄で、短く髪を切りそろえ、生き生きした瞳をした少女が、そこには立っていた。

「…うそ、もしかして、理沙…ちゃん?」

 千尋に声をかけた少女、理沙が少々興奮気味に千尋の手をとった。

「そうだよー、うっわー懐かしい!どうしたの?…あ、もしかして、転校生って千尋のこと?」
「そうそう!理沙こそ、この学校なんだ。ゴメンねー文通、私が止めちゃったんだよねー」

 しばしの旧交をあたためる。理沙は、千尋が引っ越す前の学校の友達で、町を出たあの日、花束を持って見送りに来てくれた幼馴染でもあった。引越し後、しばらく手紙のやりとりをしていたが、千尋の方からいつからとなく、返事を送らなくなってしまって久しくなっていた。

「返事が無いのは、いい便り、って言うしね、どうしたの?こっちに戻って来たの?前の家?」

 職員室へ向かいながら、千尋は簡単に近況を報告した。受験の事も考えて、父の単身赴任について来た事、社宅のマンションに住んでいる事、など、…さすがに、前の学校で腫れ物扱いされていた事や、引越し当日神隠しに遭った件や、その後起こったモロモロの事は、話すことができなかったのだけれども。

「じゃあ、私、8組だから、…多分、千尋が編入するの私のクラスだよ、先生に、転校生が来る、って聞いてるから」

 一足先に教室へ向かう理沙を見送りながら、千尋もまた、職員室のドアに手をかける。すると、先ほどまで黙ってやりとりを見ていた千尋の自称守護神が口を開いた。

「理沙…と言ったか、あの娘は、もしや…」

「…あの、カードの子だよ」

 周囲に人がいないことを確かめて、千尋が答える。

 湯婆婆に名を奪われ、自分の名を失いかけていた時、服のポケットに入っていた一枚のカードが、千尋の名を取り戻させるのに一役買っていた。実はとても感謝していたんだけれど、上手く事情を説明できないまま、今に至っていたのだ。もう一度理沙に会えた、というのは、あの時のお礼のチャンスがきたみたいで、初めて友達に、かつて身に降りかかった事件を話すことができるかもしれない、と、千尋は思った。

「千尋、あの娘は…」

 ふと、気づいた事を千尋に伝えるか否か、彼は言いかけてやめてしまった。

「…ハク?」

 ハクは、少し考え込み、そしてそのまま黙ってしまったので、千尋は、開きかけた職員室の扉を開き、二年生担当教諭の姿を探した。

 そんなわけで、転校先の千尋の状況はすこぶるよく、いままで遠巻きにしていた友達同士の他愛ないおしゃべりに夢中で、…気が付かなかったのだ。いつも横に立っている、彼が、いつの間にか姿を消していた、という事に。

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