水妖妃(2)


 ひどく嫌な夢を見ていた、という感覚だけが残る朝。数個の目覚ましを止めてようやく覚醒する日常を考えて、いやにぱっちりと目の醒めてしまったこんな日は…、下腹部に鈍い痛みが走る。生理一日目、腰痛の痛みをかかえながら、ベッドから這い出ると、物部祝子は、ハンズフリーの受話器を取り、後輩宛に電話をした。
 職業上、集中力の低下は、死を招く可能性をもつ。ありがたいことに、生理休暇が認められていた。…が、丸一日休めるほど、祝子の立場はヒマではなく、よって、午前のみの半休を後輩に告げて、そのままベッドに倒れこんだ。腰が重く、熱い鉛のかたまりを押し付けられるような熱さが、下肢の自由を奪う。薬を飲まないと、…と、起き上がる力も湧きあがらない。大きく息を吸い込んで、仰向けになり、両手を広げる。一人暮らしの部屋には不似合いな、広々としたダブルベッドは、無駄に広いが、寝心地はよかった。空の青ではなく、海の藍をした深い色のベッドカバーの上に、長い巻き毛が広がる。午後には出勤しなくてはならない、熟睡するわけにはいかないな、と、思いながら、目覚ましをセットしなおそうとして、ベッドサイドに立てかけられた、空のフォトスタンドをしばし眺めて、ベッドにつっぷした。

 夕べ焚いた香の染み付いたシーツに顔を埋めると、少しだけうつらうつらしてくる。今朝は、そういえば久々あいつの夢を見ていた気がするな、と思いながら、少しだけ、痛みを忘れて眠りにおちていった。

 痛み止めはあまり効かず、それでも、ラッシュの電車に乗らずにすんだのはずいぶんとありがたく、十三時を過ぎた頃、祝子はタイムカードをきった。既に事務所内は人もまばらで、後輩の唐沢も外出している様子だった。デスクに残るメモの山に、軽い溜息を覚えながら、行動予定表の、『鈴鹿崇志・有休』に目を止めた。

 珍しいこともあるな、と、デスク上に無造作に置かれた唐沢の業務報告書に目をやった。昨日電話で報告のあった、例の少女の件についての簡単な記述と考察が書かれている。祝子は軽く舌打ちをした。個人情報を記入した用紙はぞんざいに扱うな、とあれほど言ったのに…。と、レターケースの『業務報告』の引き出しに放り込み、パソコンの電源を入れたところで、…電話が鳴った。

「はい、こちら結界管理二課!」

 誰が聞いても不機嫌があからさまな対応に、電話の向こうの唐沢が躊躇する。

「…唐沢…あんたまた報告書デスクに置きっぱなしに!」

 用件より、先に、祝子が叱責する。

「え?しまった?でも今見たら…」

 唐沢のいつにない必死の弁明に、それ以上は追求せず、黙って報告内容を聞き、電話を切った。

 しばし、椅子に体を預けるようによりかかり、ボールペンを弄ぶ。すると、一課の面々が外出先から戻ってきた。祝子は立ち上がり、鈴鹿の有休理由について尋ねる。

 どうやら、鈴鹿は、急用で早退したらしい、という事がわかった。有休扱いでいい、今日は帰る、と、随分急いでいるようだった、という事だった。

 ふとした思い付きを、すぐに検証したかったが、まずは溜まった業務を片付けねば、と、祝子は、はしからメモの用件をこなしていく。…急がなくては、ならないかもしれない。

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