春宵桜の下


「ああああーーーーっ、忘れたーーーーっっ!!」

 地下鉄の階段を降りる途中、我を忘れて千尋は叫んだ。一斉に注目され、バツの悪さで顔を真っ赤に染めて、階段を駆け降りる。

「何を忘れた?」

 自分のすぐ横からの声を聞き流して、ホームから電車のやって来る方向を覗き込む。

「千尋、何を忘れたんだ?」

 しつこく聞いてくる声に、千尋は眉間に皺をよせる。轟音を立てて、電車がホームに滑り込む音に隠れるように、声の方向、黒い狩衣、長い黒髪をゆるやかに結わえた時代錯誤な青年に向かってあきらめるように言った。

「…マフラー…せっか編んだのに」
「…!あれは父親用に編んでいたのではなかったのか?では誰に…」

 電車に乗り込むと、再び千尋は口をつぐんだ。そもそも、そのマフラーはクリスマスプレゼントになる予定だった。それが眼前の青年…、と、こちらもハクなのだが(ややこしい)の妨害に合い玉砕。バレンタインデーで再起をはかるも失敗。そして、今日…。

「さては、”あいつ”にだな!私をたばかったか!千尋!!」

 やいのやいの聞こえてくるこの声が、聞こえるのが自分だけなのは、良かったのか悪かったのか…、と、千尋はため息をつく。ともかく、『彼』…もう一人のハクは周囲の人間には視認はおろか、気配、声さえもわからない。現時点で、『彼』を認識できるのは千尋と、もう一人、これから会う、”あいつ”と呼ばれた人物…やはりこちらもハク、のみだった。

 一駅で目的地にたどり着く。脱力して地上へ出る階段を昇りながら千尋はぼやいた。

「あーあ…」

 あまりの力の落としように、フォローなのか、とどめの一言ともつかず、青年が言う。

「しかしだな、時折花冷えの日はあるとはいえ、…今は4月、『まふらー』とは、冬に首に巻くモノだと言っていたではないか、防寒用具、既に用をなさないもの、『まんしょん』に置いてきたのであれば、幸い、安ずるな、私が使うから」

 …と、どう見ても喜んでいるようにしか見えない、笑顔で励ます。(?)

「何に?」

 既に目も合わせず千尋が小声で尋ねた。

「抱いて寝る」

 右腕を高く突き上げてハクが言い切った。

 ―――――、沈黙で答えると千尋はすたすたと、振り切るように駆け出した。


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