火鬼子(5)


明け方近く、リンは力技で目醒めさせられた。海月堂の二階にリンの部屋はあるのだが、店舗の真上にあるそこは、階下の音が筒抜けなのだ。建て付けの悪い戸を、ゆさぶる音が響く。脆弱なガラスがフレームから外れそうになり、悲鳴をあげるようにガタガタと、枠を持って揺さ振っているだろうが、今にもガラスを割らんとせん勢いに、急加速で覚醒したリンが、窓から外を見ると、男が一人、一心不乱にガラス戸をこじ開けようとしているのが見えた。

下から這いあがってくる嫌悪感に、ひとつ身震いをして、椅子の背もたれにかけたままにしていたジーンズを穿き、勢いよくTシャツを脱ぐと、形の良い乳房が揺れた。手早く下着をつけ、新しいシャツに着替えたリンは、階段を駆け降りた。既に起きたカオナシが、不安そうにガラス戸の前でオロオロしていた。

「アッ……アッ……」

 現れたリンに、カオナシが、かすかに安堵の声をもらした。

「ばーさんは?」

 リンの問いに、カオナシは、今度は黙って面のついた顔を振った。

「ったく、肝心な時にいったい……」

 リンが言いかけた時、ガラス戸の向こうの男の、獣じみた、うなるような声が聞こえてきた。

「おい、何なんだよ、アイツ、やばいって!」

そう、叫ぶリンの声と、ガラスの割れる音が同時だった。古いカーテンの向こうにくっきりとした人影が浮かびあがる。そして、舞い上がり、少々散った血しぶきは、ガラスを割る際に、男の拳が傷ついたためであろう。男の視線は、定まらず、口角には白い泡が浮かんでいる。だが、その顔は、確かに、先だって尋ねてきた男に間違い無かった。
 髪を振り乱し、唸りをあげている。一瞬動きを止めた、と、思った刹那……!

「カオナシ!避けろっ!!」

リンの声に、カオナシが身を翻す。男の拳が空を切った。紙一重で身をかわしたカオナシが身構えた。が、男は、声のした方、リンの方へ向き直る。

「ヒ……ッ」

さすがのリンも、男の尋常では無い視線にかすかな悲鳴をあげる。体が強張り、男の次の動きを予測できないまま、後ずさろうと、左足を後退させた。その隙をついて、男がリンに飛び掛った。人間離れした跳躍力は、リンの予測を大幅に凌駕し、リンはそのまま体重をささえきれずに倒れこんだ。おおいかぶさる男の生臭い息がかかる。そこで、男のつぶやきが聞こえてきた。

「……俺は……だ、だから……なければ」

かすかな声は、跡切れがちで、意味を成さない。男の瞳は虚ろで、深い虚無を映しこんでいる。かつて見た時、確かにそれは人間だった。だが今は魔物じみている。口角の泡が、涎となって、落ちかかる。嫌悪に思わず目を瞑ると、ふいに、のしかかられた重みが軽くなった。

「リンさん!大丈夫ですか!?」

リンから男を引き剥がしたのは、誰あろう、唐沢祐介、その人であった。

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