火鬼子(4)


 観察者は、常に冷淡でなくてはならない。そしてその行動が観察対象に知られてはならない。観察者の行動が観察対象の動きに干渉しては、正しい結果が得られない為だ。しかし、皮肉にも、そこにある観察対象を、観察対象たらしめるのは、観察者そのものなのだ。観察者が存在しなければ、その対象もまた、存在しない。観察者が観察対象へのシフトチェンジも容易に生じる世界に、ほのかな、火が…ともった。

 千尋のマンションは、光ファイバーが竣工時から敷設されている為、父の仕事の都合もあってか、常時インターネットに繋ぐことのできる環境にある。接続料金を気にせず接続でき、速度も快適ではあるが、千尋自身は(パソコンの操作にそれほど慣れていないため)メールチェックと、ごくごく親しい友人とメッセンジャーで会話をする程度だった。キータッチもさほど早くないので、話が盛り上がってくると、(特に理沙など女友達の場合は)つい電話に手が伸びてしまい、そういう意味では自主規制をしているくらいだった。眠る前に一度メールをチェックしよう、と、部屋のノートパソコンに電源を入れて、パジャマに着替えて、すっかり寝る準備ができたところで、メールソフトを立ち上げた。(例のペットの選べる奴だ)プロバイダから届いたメールマガジンと、もう一通、ハクからのメールだった。海月堂に来た例の人のホームページがちょっと大変な事になっているみたい、といった内容に、URLが書き添えられていた。HTMLに対応していないソフトなので、一度URLをドラッグして、コピー&ペーストする必要がある。ブラウザを立ち上げ、URLの欄へカーソルを合わせ、ペーストした。

 「なんでも掲示板」という大きな青い文字の下に、広告が続き、スクロールしていくと、一見して長文だとわかる長い書き込みが連続していた。斜め読みをしても、その文章が、管理者及びそのサイトに出いるしている人間に対して議論をふっかけていることがわかる。語気は丁寧ではあるが、いわゆる慇懃無礼、という奴で、下手に出ているようで、閲覧者を小馬鹿にしているのがわかった。

「う…わっ」

 膨大な書き込みに、一瞬千尋は感嘆のうめきをあげ、気を取り直して記事を追うことにした。新規書き込みが最上段にくるタイプのものらしく、千尋は前後の流れを把握するため、数ページログをさかのぼった。長文が途切れる少し前、管理人が立てたと思われる記事に、何件も返信がついている個所を見つけ視線を落とす。見ると、書き込まれたのは、今日のあの一件。管理人が海月堂にやってきてから数時間後の事らしい。記事タイトルは『ご報告』、と、あり、海月堂でのやりとりの記述らしい。…らしい、というのは、内容がずいぶん改ざんされていて、海月堂で実際のやりとりを見ていた人間から見ると、思わず眉をひそめるような書き方がなされてたからだ。

「どうした?千尋」

 千尋が着替え終わるのを見計らって、席をはずしていたハクが戻って来た。深刻そうな顔でノートパソコンのディスプレイを覗き込む千尋を見て尋ねる。

「うーーーーーん…」

 うめく千尋の視線の先を追ってハクもディスプレイを見た。

「…悪意ある言霊の羅列、千尋、このようなものは見ぬがよかろう」

 そう言って、千尋の視界を自らの手でもって覆った。千尋には覆われた手の向こうが、半透明に透けて見える。

「でも、読まないとわからないよ、この人、リンさんの事、ひどい言葉で罵っているし…」

「だからだ、読まずともよい、こうした言葉は千尋の心を汚すだけ、そして、発した本人が何より他者を傷つけるべく書いている、攻撃的な言葉は、見たものすべてを傷つける、理解の外にあるものだ、見ずともよい、どのみち、伝達のための言葉ではない、有益な事は何も伝わりはしない」

「…そうだけど…」

「しかし、あやつも無神経な…、こんなものを千尋に見せるとは…」

 言葉になった悪意は、確かな刃となって人の精神を蝕む。声に出すのと同様に、文字になった言葉たちは、生み出したモノ達の意図通りにそれを見たものを不快にさせる。
 ハクの言葉に従い、千尋はウインドウを閉じ、パソコンを終了させた。

「じゃあ、私、もう寝るね」

 そう言って立ち上がる千尋の後を、ハクが黙ってついて来る。

「…あれ?今日は、外に行かないの?」

 ここのところ、ハクは常に千尋が眠る頃に外へ出て行く。理由は、…聞いてみたが教えてはもらえなかった。

「今夜は、側にいた方がいいかもしれぬ」

 少しだけ、厳しい顔を作ってハクが言うので、千尋はそれ以上は聞かず、ベッドに入った。枕元にハクが立って見下ろしているので、たいそう落ち着かない。

「………ハク…」

「何だ?」

「ゴメン…そうやって見られてると、眠れないよ」

「そうか?では褥を共に…」

 と、笑顔で言いかけると、千尋が半身を起こして握りこぶしを振り上げたので、そのまま背を向けた。ベッドによりかかるようにして、千尋の側に背を向ける。

「…これでよいか?」

 それだって、距離が近すぎて落ち着かないよ、と、千尋は思ったが、あまりハクが優しそうに笑うので、それ以上は言えずに、そのまま、ベッドに体を横たえた。

「どうして、そんな風に傷つけあったりするんだろうね、元々、その掲示板に来た人だって、同じ趣味を持つ人だったはずなのに」

 例の掲示板の設置されているホームページは、千尋にとってはまったく興味の対象外ではあったが、多くの人間が出入りし、交流しているのがわかった。ログを遡れば、楽しそうに交わされたログもある。

「万人が万人、お互い相容れるとは限らぬ、まして、近いからこそ、余計にカンに触る、という事はあるものだ…私と、あやつのように」

 元々は、同じであった一人。別れて二人になってしまったモノは、互い互いにいがみ合う。

「仲良くは、…できない?」

 それでも、かつて魔性の脅威から千尋を守るために融合した二人ではあった。器を持たない竜神は、その力の多くをふるえずにいる。千尋を守るためには、一人に戻った方がいいのだろう、という事はもう、ずっと前から思っている事ではあった。かつてのように、相手の意向を無視し、相手の心も消してしまう事は容易だったが、不思議と今はそうした気にはならなかった。分かたれた半身のこれまでの人生を否定する気になれなくなっている。自分の生きてきた短い分かたれた生を大切にするのと同じように。

「さあ…、どうであろうな…」

 答えたハクに、応じたのは千尋の寝息だった。早くも眠ってしまったらしい。とがめるものが眠ったのを幸いに、ハクは振り向き、千尋の寝顔をまじまじと見て、ため息をつき、そのまま、ベッドによりかかるようにして、自身もまた、休む事にした。

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