■ハク様の長い長い一日■

1)再会は橋の上

草を踏んで、少女は帰っていった。澄んだ青空の中、ただの一度も振り返る事もなく。
少年の姿をした龍神は、少し寂しそうな面持ちで少女を見送り、すぅと息を吸い込むと、決意を秘めた目で踵を返した。

真実の名を取り戻した今、龍神を阻むものは何も無い。
彼は自由になったのだ。

それなのに、今の自分はどうした事だろうか……。

既に少年ではなく青年の姿をした龍神はため息をついた。
鏡の中には、かつての少年の面差しを残した涼やかな青年が立っていて、龍神を見つめ返している。
伸ばした髪をゆるやかに束ね、かつてと同じ色合いの狩衣を纏っていた。

「あの……クソ婆が……」

毒づいて、鏡から窓の外へ視線を移すと、ちょうど彼の主である湯婆婆が戻って来たところだった。
青年の姿をした龍神、ハクはあわててエレベータに飛び乗り、最上階の彼女の室へ向かって行った。

「なんだい、この売り上げは、てんで下がってるじゃないのさ」

開口一番、湯婆婆の舌鋒は容赦が無い。

「湯婆婆様、昨今湯屋は油屋だけでは無いのです、北は流氷のほとり、南は火の島まで、神々をもてなす湯屋は今や飽和状態、正直、釜爺の薬湯だけでは勝負になりません」

数字の書かれた表を出しながら、ハクも気力負けせずに立ち向かう。

「じゃあ、他に何か工夫したらいいだろうに」

これだから現場知らずは……と、口答えしたいのをぐっと堪えて、ハクはひたすら湯婆婆の叱責に耐え続けた。

「明日は……団体のお客様も入っています、もっと団体の集客に力を入れ、必ず湯婆婆様のご期待に沿えるよう善処いたします」

そう結んで、ハクは湯婆婆の前から退出した。

*********

「ええぃ、まったく!」

自室に戻り、ハクは狩衣を緩め、束ねた髪をほどき、そのまま寝台に横たわった。
湯屋の従業員は敷地内の大部屋で寝起きをしているが、父役、ハクといった一部の者は私室を与えられている。とりわけハクの与えられた部屋は湯婆婆や坊の部屋にも順ずる設備で豪奢ではないが品のよい調度の揃った和洋混交の部屋だった。

全身をぞんざいに寝台に投げ出して天井を見る。
ちらりと枕元の水晶に手をかざすと、電波状態の悪いテレビのように、ひどい砂嵐が現われた。
砂嵐の中にぼんやりと人の姿のようなものが映る。
それは動いているのは確かにわかるが、決してはっきりした像を結ばない。
もう何年も、初めから。
ほどこしたはずのまじないは最初からしくじっている。
見守りたい相手を見守る事も、まして会いに行く事もできずにイライラと日々を過ごしてきた。
それでも湯屋を出ないのは、そこが唯一の接点であるから。
砂漠で針を見つけに行くのと、相手が戻ってくる可能性と、天秤にかけてハクは湯屋に残っている。
彼を縛る契約は既に無い。
いつなりと、出て行く事は可能だったが、行くあてがないのだ。

初めて会った時、彼女はまだはぐれ神であった彼の中に落ちてきた。
幼い彼女をやさしく抱きとめて水を潜り、そっと川岸まで運んでやった。
泣きながら母親がかき抱いていた少女、千尋、千尋と叫ぶ母親の声が耳に残っている。

次に会った時、彼女は伸びやかな手足の少女で、好奇心深そうに見知らぬ町を散策していたようだった。
何故か心に掛かる彼女を助けた事で、ハクは失っていた自分の真実の名前を取り戻した。

小さな肩を抱き、手をとる。
泣いている顔も、必死に働く姿のいじらしさも、ハクは鮮明に覚えている。
かなうのならば、ずっと湯屋へ。
供物に手をつけて豚の姿に変えられた両親など忘れて共に生きたいとさえ思ったが、彼女は幼くて。
ならば大人になるその日まで、遠くから見守り続けようと決心して見送ったあの日以来、彼女の姿は見えなくなった。

何が邪魔をしているのか、何が理由なのか。
師である湯婆婆は意味ありげに笑うだけで答えず、ハクは未だに油屋で労働に従事しているのだった。
人の世で、どれだけの時間がたっているのだろうか。
千尋はどんな娘に成長したのか。

のびやかな手足は女性らしくやわらかな曲線を描き出し、ふっくらしたほっぺたは相変わらずで、伸ばした髪を子供の頃と同じに束ねている彼女の姿を幾度夢に見ただろうか。

「ハク……」

そう自分を呼ぶ千尋を幾度も夢想して、

「ごめんなさい、私……」

見る間に娘は花嫁装束を纏い、ハクの手をすり抜けていってしまうのだ。

「千尋!」

そう声に出して悪夢から目覚める。
最悪な寝覚めに、大変間の悪い事に電話が鳴った。

「何の用だ」

電話口のハクの剣幕に、青蛙は電話をかけた事を後悔したが、言葉を一瞬詰まらせただけて、けなげにも続けた。

「大変です、ハク様すぐに帳場においで下さい」

「仕事の時間は終わっている、自分達で何とかしろ、この給料泥棒」

冷淡に言って電話を切ったが、結局すぐまた電話をかけ直し、ハクはあわてて身支度を整えて部屋を後にした。

「どうして売り上げが落ちているのに数字が合わんのだ……」

肩をこきこきと鳴らしながら、午後近くまで差額の追求をしていたハクは眠い目をこすりながら湯屋の外へ出た。
夜明けには床につき、夕暮れと共に目覚める油屋からしてみれば、今の時間は深夜に等しい。
伝票の間違いを見つけるまで無駄に時間をかけてしまった。
今度やったら新参の蛙はボイラー室へやることにしよう。いや、豚に変えてしまっても……などと物騒な事を考えながら歩いていると。

!!!!!!!

橋を渡ろうとした刹那、欄干に足をのせ、橋の下を覗き込んでいる人の姿。
それは、間違いなく、人間で。

振り向いた、それは。

「千尋……!」

あの時、初めて油屋で会った千尋に、ハクは

「ここへ来てはいけない!すぐ戻れ!」

そう叫んだのだった。
けれど、今は追い返したくは無かった。何と言うべきか、共に外へ行こう、だろうか。
会いたかった、だろうか。

「あなた……どうして私の名を知っているの?」

忘れている……私の事を忘れてしまったのか千尋ーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!

暗転。

▲上へ
<<■>>



template : A Moveable Feast